手をのばしたかっただけ

 あっちこっちのタイルに傷と凹みと黒っぽい滲みの後が点在する見慣れた廊下の床なんかみたくなかったから、脱走するのにも都合がいいぐらい大きくとられた窓を見上げた。バタバタと走り回る足音と鐘の音が遠くで響いている気がするが、それは本当に気がするだけで5m先の教室のドアを教師がくぐっていくのが視界の端に映っている。
 教師は席につかない他の生徒を叱責しているようで、常日頃から騒ぎをおこす事のないオレみたいな大人しい生徒が教室に入らず、ぼんやり窓の外を眺めているのなんか目に入らなかったらしい。
 そういえばあの教師はいつも出席をとらない。教室にいない生徒の面倒なんかみるつもりがないんだろう…一種の美学だろうか?そんな事を取り留めなく考えながら見上げた窓の外は、青々とした緑が日の光を反射してきらきらしている。素敵な小春日和
 サボタージュを決定。 
 科学のノートと教科書とお気に入りのペンケースをロッカーに突っ込んで、西階段下にある裏口に向った。あそこから中庭にでると手入れのあまり行き届いていない芝生が広がっている。来客用の出入り口に近いので教師の監視が比較的厳しく、煙草や暴力行為を好む大半の生徒からは敬遠されがちだが、窓から死角になる木陰で昼寝をするには絶好のロケーションなのだ。
 春の陽気にあてられたように一段外しで景気よく階段を下る。今は授業中だし、この当りはいつだって人気がないから完全に油断していたものだから、上がって来た人物と踊り場で正面衝突した瞬間は、何が何だかわからなくて目の前が真っ白になった。



 う"お"ぉい!!

 独特の怒鳴り声、北欧の血統なんだろうか?白い顔に血が上って鬼みたいに赤くなってるし、日差しを反射する銀髪はいつもより逆立ってる。
 正面衝突した相手は、凄腕の少年剣士としてこの暴力に浸り切った学校内で更に一段深い所に位置づけられ、畏怖の視線を集める同級生で、へなちょこの異名を取るオレからすれば密かな羨望の的。
 そんな相手と急激な接近を果たしたせいか、またはいつもの事なのかもしれないが謝ろうとしたオレはあろう事か段差もなにもないツルリとした床の踊り場でつまずき、両手で顔を抑えたまま同じく顔を抑えてる相手の腹部に頭突きをくらわしてしまった。
 本当に悪気はなかった。むしろとてつもなく深く頭を下げようとしていたぐらいだ!
 しかし、今更そんないい訳は聞き入られる訳もないだろうし、つい三日前に上級生数名から因縁をつけられたが逆に相手の上級生を全員切り刻んだと、その手の噂に全く事欠かないこの相手から無事になんて逃げ切れる訳もない。
 こんな情けない理由で人生にさよならを言う羽目になるなんて!それより、折角近づけた憧れの存在の前でもこの体たらく、いい加減に自分に嫌気がさしてきて情けない。ついでにぶつけた顔も頭もヒリヒリしてガンガンして・・・

 ボタッ

 透明な食塩水が踊り場の床に落ちた。
 自分が泣いてる事に気付かなかったが、顔に違和感を感じて腕でごしごしと目尻を拭っていると(当然それは傷口に塩をすり込む様なもんでとても痛かった)、ぶつかった相手はオレを哀れんだのか、呆れたのか、なにかもう面倒になったのか(きっとその全部だろう)、ぶらさがっている方のオレの腕を掴んで保健室まで引っ張って行ってくれた。
 そんな事をしてもらえるとは全く予想していなかったし、さっきからずっと混乱しっぱなしだったし、大体にしてしゃくりあげるほど泣いていたもんだから謝罪も感謝もろくに言葉にならなかった。
 それでもオレの手を引いてくれたそいつは、オレが何を言いたいのか解ったようでしきりに解ったと繰り返し、何故か悪かったと一度だけ謝った。


 オレ達をみた保険医は大層驚いていて、そして濃い化粧で隠したはずの目尻の皺を盛大に刻んで笑った。とても綺麗な笑顔だったのを、こんなに歳をとっても何故か一番よく覚えている。



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