無限回廊

「ええと、なんだっけ。こう、ずっと階段を昇り降りし続けなきゃいけない階段の絵があったよね?」
 みんなが思い思いに机や椅子をくっつけて、騒ぎながらお弁当や購買部のパンを食べている最中、山本が三人分買ってきてくれた牛乳の紙パックにストローを差し込んで、一口目を啜る前に疑問を口にする。
 山本はベコベコに紙パックを凹ませる程飲んだ後で、ストローを銜えたまま「なんだそれ?」って不明瞭な発音で首を傾げた。それを軽蔑したような半眼で睨みながらも、獄寺くんは自分の分だった筈の牛乳を山本に渡しながら「マウリッツ・エッシャーの『上昇と下降』ですよね?実際には建築不可能なループ上の階段を上る人間と下る人間を描いた…」すかさずオレが「そう!それ!」と答えると、更にいくつか代表的な作品をあげてオランダ人作家について説明してくれる。
 山本は獄寺君の話はうわの空で、貰った(返してもらった?)牛乳をうまそうに飲んでた。話の終わりに獄寺君が不思議そうにこっちを見た。
「しかし、十代目。突然どうしたんです?」
「えっと…ちょっとテレビでちらっと見てから気になってたんだ」
 朝からずっと用意していた答えを返すと、獄寺君は「そっすか」とあっさり信じてくれた。その一分半後に、何故か山本と獄寺君は机をひっくりかえして窓を割る程の喧嘩になったので、興奮する獄寺君をなだめすかし、三人で先生に怒鳴られて後始末をしているうちに昼休みは終わって六時間目にはいった。午後の授業を受けた後、獄寺君と山本は反省文を書くために居残りさせられることになった。
 二人に用事が有るからと断って先に帰宅する。獄寺君は不満そうだったけど、反省文は自分の責任なのでしつこく食い下がったりは当然しなかった。山本はいつもの顔で「わりーな」って言って手を振っていた。


 一人で帰宅する途中、図書館に寄ってインターネットに接続してあるパソコンを使い、昼に獄寺君に教えてもらった作者名と絵の題名を検索する。作者のファーストネームはうろ覚えだったけど、”エッシャー””上昇と下降”で求めていた画像はあっさりと見つかった。学校のような図書館のようなしかし実際にあれば全く用を為さないだろう不思議な形の洋館がモノクロームで描かれた絵は、建物の中心部に正方形にちかい階段があって、登り続ける人間と下り続ける人間が並んで描かれている。
 パソコン画面の中にあるその絵をしばらくぼんやりと眺める。
 昨夜夢で見た光景は確かにこの絵に似ていた。夢を見た瞬間から”こんな絵が有った…”という既視感を感じていたが、この絵で間違いない。液晶画面には他にもエッシャーの作品や、その生立ちなどの細やかな情報が映っていたけれど、後ろで順番を待つ女子大生の視線から逃れるように図書館をでた。
 人気の無い帰り道の住宅街は、見知っていた筈のものなのに、まるで先週の日曜にみた夢みたいに現実感がない。

 夢の中で、オレは眼帯をした女の子の手を引いて階段をずっと駆け上がっていた。息が切れて苦しくなってくると階段はくだりになり、その内に廊下になり、曲がり角では何だか知らないがひたすら左に曲がって、女の子の手をひいてずっとずっと走り続ける。そこは薄暗い、多分エッシャーが描いていた様な不思議な形の洋館かなにかだったんだと思う。兎に角、オレは女の子とそこを出なければならなかったのだ。

何故かは解らない。

 ずっとずっと走っているのに、通路の終わりは見えなくて薄ぼんやりと光って見える白い廊下と真っ黒くて天井が見えない壁だけがいつまでも続いている。たまに階段を上ったり、降りたり、ずっとずっとその繰り返しで、しかし、女の子とここを出なければならないという目的だけは確信としてオレの中に有り続けた。
 どれくらい走ったのかさっぱり解らないから、それは10分かそこらだったかもしれないし、何時間も、あるいは何日間も経った後なのかもしれなかったが、男が唐突に壁の向こうから現れて少女の反対側の手を引いた。
 すると少女は、名残惜し気にオレの手を離して現れた男のところへ歩み寄り、真っ黒な壁の奥に消えてしまった。オレはその事に対して少しだけ不快に思った筈なのに、すぐに男の手を引いてまた走り出していた。
 この男も連れ出さなければならないのだ。そして、男を連れ出せばあの少女も連れ出す事が出来るのだ。
 その事を何故か知っていて、今度は自分より背の高い男の手を引いて走り出した。
 走り出してすぐだったと思う、廊下の終わりが階段を上った先に見えて来た。眩いばかりの真っ白な光が差し込んでいるのがはっきりと見えたのだ。
 安堵し、期待に胸を膨らませて走る速度を上げようとしたが、いつの間にかこっちが男に手を引かれていた。男は発光する出口の前までやってくると立ち止まり、顎で先にいくよう促して来た。
 オレが先にいけば、彼がついてこない事は解っていたから頑なに首を横にふって拒んだ。そして男の手をしっかりと握ったまま光へと歩き出す。とても強く握っていた筈なのに、光に飲み込まれていく間に男の手はするりとオレの手をすり抜けてしまう。
 振り返って何か叫んだと思う。ちゃんとした言葉ではなかったけれど、彼を置いていく事実に対する否定だった。
 真っ暗な世界で、彼が傍らに少女を置いて微笑んでいた。

 
 ベットの上で目を覚ましたオレはボロボロと子供の様に泣いていて、顔を洗う時に鏡を覗くと赤く腫れた目が真っ暗な世界に置き去りにしたあの男の片目を思い出させた。


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