成人


 それは本当に突然の事で、前触れなんか何一つなかった。
 その日は天気がよかったのかどうかもよく覚えていないけれど、雨が降っていなかったし暗くもなかったから多分晴れていたのだろう。暑かったのかと言われればいいえと答えるし、寒かった覚えも無いからきっと春。
 ずっと後になってから記憶を掘り返してみるとそんな風にひどく曖昧なものしか残っていないぐらい、とるに足らない普段の毎日と同じ日だった。
 しかし、オレはその日確かに子供じゃなくなって大人になった。
 いつもどおりに、日が高くなってからベットをのろのろ這い出し、冷蔵庫を開けて残ってた葡萄のジュースを直接ビンに口をつけて煽った瞬間、気付いてしまったのだ。

 甘ったるい砂糖味に昨日まで感じていた筈の興奮を感じない。ブラインドの間から差し込む日の光にトキメキを覚えない。テレビを付けて、お気に入りのアニメを見てもあのワクワクする高揚感は得られない。
 大好きな味のアイスクリーム、お気に入りのブランケット、ずっとずっと欲しかったカタログの中にしかない腕時計、とびきり気分のいい日にだけ履いていく靴、とても好きな人に褒められたシャツ・・・どれもこれもたまらなく好きだった筈で、今でも勿論好きでたまらない事にはかわりないけれど、なにもかもが薄いグレーのフィルムを挟んでいるかのように色あせて見える。
 最初は混乱して自分はおかしくなってしまったんじゃないかって考えたけど、そんなの事はあるはずないと直ぐに考え直して、愛しくて愛しくてたまらない人に会おうと思って携帯を手にして発信履歴の8割を占める彼の番号を呼び出し、
 不意に手を止めた。
 時計を確認すると午前10時少し前、彼は昨日も仕事があったからきっと昼過ぎまで眠っている。いきなり電話なんてかけたらきっと不機嫌になるだろう…
 そこまで考えるともう電話をかける気にはなれなくて、携帯を閉じてテーブルに置き、何年か前の誕生日に贈ってもらった一人かけのソファーに座り込んで膝を抱える。

 おかしいと思う。
 今まで彼の都合なんて気にした事はなかった。いつだって会いたい時に電話をかけた。それだって大分よくなった方で、もっと昔はいきなり彼の居そうな場所に考え無しに出向いていって、時には罵倒され、時には優しく抱きしめてもらったり、セックスしたり、酷い時には殴られたり銃を突き付けられたりもした。
 目を閉じると、あの無駄なものが一切無い完璧な指が緩慢な動作で自分に触れる瞬間に感じる興奮と劣情と嫌悪と苛立ちとどうしようもない愛しさが鮮烈に記憶されているのに、今もし彼から触れられてもきっともうそんな風に感じる事はないんだって事が解った。
 いくらイメージしてもそれはあくまで過去の記憶で、これから例え彼の眠っているアパルトメントに走って向って扉を叩いて彼を無理矢理起こし、起きた彼が自分を殴るのか、冷たくあしらうのか、ベットまで引き入れてくれるのか、それとも運命的に扉を叩く前に彼が扉を開けて走って来た汗だくのオレをみて柔らかな視線を向け口の端を僅かに上げてくれたとしても(オレはその顔の彼が一番好きだ)きっと前ほど心をかき乱される事は無いだろう。

 その事実はひどくオレを打ちのめして、とても我慢出来なくて涙が溢れて止まらなかった。

 だけど、その涙だって5分と持たずに止まってしまい。ぐずぐずになった顔を洗うついでにシャワーを浴びて着替えをして、鏡の前で人前に出てもどうにか体裁を保てる顔になった事を確認してからお気に入りのオープンカフェに行き、甘いカフェオレとパンケーキとジェラードの盛り合わせを注文した。


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