その時、何がそれほど彼の心を鬱屈としたものしたのか解らなかったけれど、ただ彼がその時にひどく、ひどく、心が痛んだのだと、僕にはわかりました。
 僕の勘違いでなければ、彼のその傷に気付いたのはきっと僕だけだったと思う――――否、そうであればいいという願望であり、純然たる事実として、その瞬間の彼の傷には僕以外は気付き様がなかったのでしょう。
 僕はその事実が途方もなく愛おしくて、僕の意識の続く限りに記憶に刻んでおこうと決めました。





あなた以外に愚鈍



 イタリアの夏は気温こそ高いものの、日本の忌まわしい程の湿度がなく、彼はそれが過ごしやすくていいといつか笑っていました。
 その日は久しぶりに妹さんが来るのだと、やはり彼は快活に笑っていて、そわそわとするボンゴレとそれにいつも付き従っていた自称(事実上、彼以外がボンゴレの右腕なのは明白であっても、それは公的な名称でなかったのでいつまでもこの前置きは消えなかった)右腕の青年と、何故かその場に居合わせた僕までもが空港に出迎えに行く事になってしまった。
 僕は断ればいいのに、彼があんまりに機嫌がいいのでついうっかりと承諾してしまい、彼を隣に乗せて彼が”左ハンドルは運転できん”と右ハンドルに固執するあまり購入した中古のジャガーを運転する羽目になった。
 彼は自動車を運転する事が基本的に好きではないらしく、誰かの助手席に座る事を好み、それよりも誰かと歩く事を、更にそれよりも一人で走る事を好んだ。
 車に乗っている間、彼は妹とボンゴレの話をしていた。妹の幸せを心の底から喜ぶ彼を横に乗せている事は心地よくて、珍しく僕も上っ面だけでなく祝いの言葉を告げたりした。彼と彼の妹とボンゴレの幸せを、その瞬間には疑いもしなかった。

 空港に着いて、飛行機から彼の妹が黒髪の友人と一緒に降りて、彼とよく似た快活な笑顔で懸命に腕を振って駆け寄って来た時に違和感に気付くべきだったのかもしれない。
 あるいは彼が僕を誘った時に、彼の僅かばかりの不安を汲み取ればよかったのだろうか?そうした所で僕にはどうする事も出来ない。
 彼の妹が真っ先に彼に駆け寄ってその胸に飛び込み、それを明らかな落胆でみつめるボンゴレと、冷ややかな視線を送り続ける右腕の青年、妹の友人はそれよりも更に冷たい視線をボンゴレに向け、彼は喜色を浮かべながらもとてもとても傷ついていた。

 僕は一歩下がった所で、彼の傷つく様を見ていました。
 皆が皆、自分の感情に溺れている間に僕だけが、その瞬間の彼の傷を感じていれた事がひどく嬉しかった。
 その事に舞い上がり、僕はその光景の違和感に気付いていながら気付けずに、何故彼が傷ついたのだろう?とそんな愚かな疑問を浮かべてしまう程、とても嬉しかったのです。


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