言葉にすれば幸せが逃げてゆくこと

センチメンタル



 了平が始めて授業をさぼって屋上でヒバリと過ごした日を境に、了平は時間を見つけては屋上へ向う様になった。とくに昼休みには授業が終了すると同時に駆け出して、先ずは屋上を覗いた。大概の場合はそこでヒバリが昼寝をしていて、二人で過ごす。
 了平は前ほど熱心にボクシング部へヒバリを誘わなくなった。ヒバリにその気がない事がやっと了平にも解って来たというよりは、ヒバリが並盛市についてぼつぼつと話す様になっていたせいで、了平の興味がそっちへ移った為にだ。
 ヒバリの並盛についての知識はすさまじく、小さな駄菓子屋ひとつに至る人が一人とおるのがやっとの細い道や、町内会の裏事情、季節ごとの花の名所、今月の出産数まで多彩で膨大だった。
 ヒバリはそれほど口数が多くはなかったが、了平が聞けば大概の事には答えたし、個人的な嗜好について率先して話す事もあった。
 例えば了平がソースはウスターより濃厚ソースの方がいいと口にした時など、ソースなんかいらないと言い、了平が訳を聞けば醤油があればそれでいいと答えた。その後、ちょっとした口論になって最後は殴り合い・・・といっても最後の方はヒバリに了平が倒されて終わってしまう。
 殴り合いになっても二人の間にイヤな空気が漂う事もなく、最終的には不本意そうに了平が折れて謝罪を口にし、ヒバリもそれに習うのだった。

 そこに流れる空気は穏やかで心地よく、二人は互いに満足していた。していると思い込んでいた。


 ある時、ヒバリが急に黙り込んだ。了平は最初こそそれに気付かなかったが、あまりヒバリが黙っているのでどうした?と問いかけて自分も黙ってヒバリの答えを待った。
 それは二人が連れ立ってはじめて一緒に校舎を出て町を歩いていていた時で、日の傾いた住宅街の細い通りは人通りがほとんどなく、それが気に入っていてヒバリは好んでそこを通っていた。了平の家に向うのにもそこを通ると知って二人ははじめて一緒に歩いていたのだが、思えば晴れた日の昼以外の時間に了平を見たのもそれがはじめてで、ヒバリはそれに気付くとなんだか了平が自分の知っている了平とは違う人間のように思えてきていた。
 勿論そんな事があるはずがなく、そこに居るのは紛れも無く笹川了平で、ただヒバリが今まで見ていた時より赤みがかった色に照らされているだけなのだが、ヒバリは了平の知らない部分が有った事が何故か苛立たしく、それと同時に知らなかった部分を知れた事が無性に嬉しかった。
 そこに名前をつけてしまうのはとても簡単なようで、そんな単純なものではないと思いたいような、妙な気分に陥った自分自身に戸惑い、ヒバリは怪訝な表情でこっちを見る了平に声も発せなかった。

「ヒバリ?」
 痺れを切らした了平がヒバリの額に無遠慮に手を合せ、熱でもあるのかと心配そうに覗き込んだ。ヒバリは反射的に了平の手を振り払い。
「なんでもないよ」
 素っ気無く言い放った。ならいいと了平が笑うと、ヒバリは今し方振り払った手を掴んで先んじて歩き出した。了平は訳が解らずどうかしたのかと声をかけるがヒバリは、それ以上はどうしたって道が分かれてしまう所にでるまでずっと押し黙っていた。
 ただずっと了平の手は握ったままで、普段から体温の高い了平はヒバリの手がいつもより熱い事にずっと気付かなかった。


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